America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~:New York
Sagamore Hill National Historic Site
Gateway National Recreation Area
Eleanor Roosevelt National Historic Site
Home of Franklin D. Roosevelt National Historic site
Vanderbilt Mansion National Historic Site
Martin Van Buren National Historic Site
Saratoga National Historical Park
Fort Stanwix National Monument
Women's Rights National Historical Park
Theodore Roosevelt Inaugural National Historic Site
Sagamore Hill National Historic Site(サガモア・ヒル国立史跡)は、その名前からはよくわからないかもしれないが、ニューヨーク州のLong Island(ロング・アイランド)にある第26代大統領セオドア・ルーズベルトの邸宅を保存する国立公園ユニットである。
ルーズベルト邸宅のあるロングアイランドのOyster Bay(オイスター・ベイ)地区は、もともと彼の父親が別荘を立て、ルーズベルト自身も15歳のときから毎年夏を過ごしていた風光明媚なお馴染みの土地であった。1880年に婚約者のAlice Hathaway Lee(アリス・ハザウェイ・リー)とオイスター・ベイにある納屋が建つ丘を購入し、そこに新居を建てる計画を立てた。しかし、セオドア・ルーズベルト国立公園のところでふれたとおり、1884年に最愛の妻アリスと母マーサを同時に亡くしてしまう悲劇に見舞われる。計画はご破算かと思われたが、生れたばかりの娘アリスのために計画通り家を建てることを決意した。しかし、ルーズベルト自身は、ノースダコタで傷心を癒す生活を送り、アリスは叔母のアンナとともに新居で暮らすこととなった。1886年にルーズベルトは幼馴染のEdith Carow(エディス・キャロウ)と再婚してからは、この新居に住み、以後ルーズベルトは1919年になくなるまで、この家を終生の住居とした。ルーズベルトは、この家をサガモア・ヒルと名付けた。サガモアは、もともとこの土地を持っていた原住民の酋長の名前にちなんだものである。
新居に転居してから大統領に就任するまでの彼の半生については、Theodore Roosevelt Inaugural National Historic Site(セオドア・ルーズベルト大統領就任国立史跡)のところを参照していただきたい。彼が1901年に大統領になってからは、家族はホワイトハウスに転居することになるが、毎年夏にはサガモア・ヒルに帰省し、ここから国政の指揮をとっていたため、サガモア・ヒルはSummer White House(サマー・ホワイトハウス)と呼ばれていた。また、セオドア・ルーズベルトは、日露戦争終結の仲介の労をとった功績で後にノーベル平和賞を受賞するが、平和交渉が行われたポーツマス会議の事前会議がこのサガモア・ヒルで行われている。ルーズベルトは、サガモア・ヒルで小村寿太郎やセルゲイ・ウィッテと会い、両国交渉団をオイスター・ベイに浮かぶヨットでひき合わせている。外交面では、コロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河建設の権益を確保するなど、中南米への関与を強めた。
内政面では、科学的手法を用いて政府が社会的問題を解決すべきとの考えに立つ進歩主義を信奉した政策を展開した。とりわけSquare Deal(まっとうな取引)と称して、経済的支配力や汚職の排除に力を注いだ。ルーズベルト政権下では44の独禁訴訟が提起され、スタンダード石油の解体などが実行された。鉄道規制にも取組み、リベートの禁止、州際取引委員会による上限運賃規制、財務諸表の報告などが実現された。食品や薬品の表示や衛生規制の導入も実施した。さらに自然保護に努め、多くの国立公園、国定公園を指定したほか、林野庁を設立し、国有林の保護に当たらせた。大企業を相手にし、一般市民や労働者のために戦うリベラルなイメージは国民の人気を高めた。
多くの国民が3選を望む中、ルーズベルトはWilliam Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)を後継に指名して2期で大統領を引退し、元大統領としては異例の引退生活を送ることとなる。ルーズベルトは、ワシントンDCのスミソニアン協会とニューヨークのアメリカ自然史博物館のためにアフリカ探検隊を組織して自らも参加し、多くの動植物の標本を採取し、寄贈した。ヨーロッパ・ツアー後、後継に指名したタフト大統領が自分の意に沿わない政策を実施していることを知ると、1912年の大統領選挙にはタフトの対抗馬として共和党予備選挙に出馬し、共和党大会での指名が難しいことを知ると、新たな政党Progressive Party(進歩党)を組織し、大統領選挙に第3の候補者として出馬した。ルーズベルトはタフトを上回る票を獲得したが、この結果、共和党の票が割れ、タフトは落選し、民主党のWoodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)が当選することとなった。大統領選挙に敗れたルーズベルトは、今度はアマゾン探検に乗り出す。探検隊が新たに発見したアマゾン川の支流は、Rio Teodoro(セオドア川)と名付けられる。しかし、ルーズベルトはこのときにマラリアと足の炎症から命を落としかける。帰国後は、さすがに未開地の探検のような無理はきかなくなり、著述活動、講演活動などに専念し、歴史、西部、自伝などの著作を残している。第1次大戦時には、早期からヨーロッパ戦線への介入を唱え、ウィルソン大統領と激しく対立した。米国参戦が決まると、自ら歩兵団を組織しようとするが、ウィルソン大統領に阻まれる一幕もあった。一方では、第1次大戦では、ルーズベルトが最も可愛がった末っ子のQuentin(クウェンティン)を失っている。晩年は、ボーイスカウト活動の発展に熱心であったという。
ルーズベルトは、探検家、歴史家、作家、ハンター、自然保護活動家、鳥類学者、軍人、カウボー� �� ��、そして政治家でもあり大統領でもあった、多面な才能にあふれた、一言では言い表せないスケールの大きな人物である。サガモア・ヒルに残る6,000冊の蔵書は、彼の多様な側面を物語っている。
(国立公園局のHP)
ニューヨークの郊外に合計で26,600エーカー(108平方キロ)のビーチ、砂丘、森林、湾などからなる自然が残されている。これらの貴重な自然は、Gateway National Recreation Area(ゲートウェイ国立レクリエーション地域)に指定され、ニューヨーク市周辺住民に憩いの場を提供している。ゲートウェイ国立レクリエーション地域は、Jamaica Bay(ジャマイカ湾)、Staten Island(スタテン島)、Sandy Hook(サンディー・フック)の3つのユニットから成っている。
中でも中心的な地域は、ジャマイカ湾ユニットである。ここは、JFK空港のすぐ裏手に当たるが、湾内に野生動物保護区が設定され、水鳥の宝庫となっている。ここでは300種類以上の鳥類が確認されている。冬にはカナダ雁、夏にはブロンズトキやサギ類の溜まり場となる。
ここのWest Pond Trail(ウェスト・ポンド・トレール)を歩くと、遠くに見えるマンハッタンの高層ビルを背景に、水鳥たちが毛繕いをしながら浮かんでいる。都会の喧騒から離れた別世界である。このトレールを歩いているとき、珍しい光景に出会った。カモメが何かをくわえて、繰り返しトレールに落としていた。よく見ると、カラス貝のような貝を上から落として割っていたのであった。トレールのところどころには貝殻が転がっており、なぜ道に貝殻が落ちているのか不思議な思いがしたが、疑問が一気に解決した。
ジャマイカ湾ユニットには、この他、昔の飛行場であるFloyd Bennett Field(フロイド・ベネット飛行場)やFort Tilden(ティルデン砦)など歴史的な構造物も残っている。フロイド・ベネット飛行場は、リンドバーグの大西洋横断がニューヨークから離陸したものではなかったことにショックを受けたニューヨーク市初の市営の飛行場で1931年に開港した。1930年代に多くの飛行家がここから長距離飛行世界記録や大陸横断記録などを塗り替えていった。しかし、郵便輸送はニューアーク空港にとられ、ラガーディア空港が近くに開港するとこの飛行場はニューヨーク市にとって荷物となり、1941年に海軍に売却された。ティルデン砦は、1917年に造られた沿岸防衛の基地で、その後ミサイル基地として使用され、1974年に廃止となったものである。
スタテン島ユニットには、The Narrow(ナロー)と呼ばれたスタテン島とニューヨーク・ブルックリンとの間の海峡を警備したFort Wadsworth(ワッズワース砦)や1921年に沿岸防備のため整備された陸軍のMiller Field(ミラー飛行場)や散歩によいGreat Kills Park(グレート・キルズ公園)などがある。
ワッズワース砦は、独立戦争の頃から軍事的要所として認識され、ニューヨークを占拠したイギリス軍が最初に軍事的拠点を築いた。英米戦争のときには逆に連邦軍とニューヨーク民兵がこの場所からイギリス軍の来襲に備えて警戒に当たった。英米戦争後の沿岸防衛の一環として、1847年から1862年にかけて堅固なFort Richmond(リッチモンド砦)が築かれ、1865年に、Wildernessの戦いで戦死した北軍のJames Wadsworth(ジェームズ・ワッズワース)准将の名前を冠してワッズワース砦と改められた(1902年にこの一帯の基地がワッズワース砦と呼ばれることとなるに伴い、旧リッチモンド砦はBattery Weed(ウィード砲台)と改名された)。1859年から1876年にかけてワッズワース砦とナローの陸上防備のためにFort Tompkins(トンプキンス砦)が整備され、20世紀初頭までに幾重もの砲台が築かれた。第1次大戦後には砲兵隊の基地となり、冷戦時には地対空迎撃システムであるNike Missile(ナイキ・ミサイル)が配備されるなど、ニューヨーク防衛の要として使用され、1994年の基地閉鎖に伴い、国立公園局に移管された。
サンディー・フック・ユニットは、ニューヨーク湾に突き出た砂洲であり、ビーチがあるほか、1764年に建てられた現役の灯台の中で最も古いSandy Hook Lighthouse(サンディー・フック灯台)、1895年に沿岸防衛のために整備されたFort Hancock(ハンコック砦)、かつての砲銃試験場であるSandy Hook Proving Ground(サンディー・フック・プルービング・グラウンド)などを見ることができる。
個々の対共同意志がなります
ハンコック砦は、1859年にニューヨーク沿岸防衛のため石造りの砦として建設が開始されたが、銃砲の進化によりすぐに時代遅れのものとなった。このため、1894年にモルタル製の砲台を築き、続いて1895年にコンクリート製のBattery Potter(ポッター砲台)を建造した。この2基の砲台の完成をもって、正式にハンコック砦として開設された。砦の名称は、南北戦争の北軍の将軍Winfield Scott Hancock(ウィンフィールド・スコット・ハンコック)に由来する。その後もニューヨーク沿岸防衛の要として兵器の進化に対応して新たな砲台の整備や改良が行われ、冷戦時代にはナイキ・ミサイルも配備された。大陸弾道弾の到来とともに、時代の役割を終え、ハンコック砦は1974年に閉鎖された。ハンコック砦は、今日では政府施設等に利用されている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
jeruselum滝
Eleanor Roosevelt(エレノア・ルーズベルト)は、女性であれば家庭に入って良き妻・良き母となることを求められた時代にあって、障害のため自由に動けない夫であるフランクリンに代わり、夫の目となり、耳となり、口となり、彼の政治活動を支援するとともに、恵まれない人々、下積みの人々に光を当て、彼らの人権の向上に生涯を捧げた。トルーマン大統領は、彼女のことをThe First Lady of the World(世界のファーストレディー)と呼んだ。Eleanor Roosevelt National Historic Site(エレノア・ルーズベルト国立史跡)は、特定のファーストレディーに捧げられた唯一の国立公園ユニットで、彼女がVal-Kill(ヴァルキル)と呼んだ彼女の住まいが保存されている。
エレノアの本名は、Anna Eleanor Roosevelt(アンナ・エレノア・ルーズベルト)といい、彼女は母からもらったファーストネームを好まず、ミドルネームを用いた。エレノアは、後に大統領となるセオドア・ルーズベルトの弟Elliott(エリオット)とAnna Hall(アンナ・ホール)の長女として1884年10月11日にニューヨークで生れた。エレノアは10歳になるまでに母と父を相次いで亡くし、母方の祖母の許で育った。15歳で叔母の進めによりイギリスの寄宿舎学校に入学し、ここで恥ずかしがりやの内気な少女は、Marie Souvestre(マリー・スーベスター)の指導の下、独立心と自信をもった、恵まれない人への愛情に溢れた女性に育った。帰国後ニューヨークで貧しい移民を助ける仕事に従事していたとき、叔父のセオドア・ルーズベルトがホワイトハウスで開いたパーティーで将来の夫となる遠縁のフランクリンと出会う。フランクリンを溺愛する母サラはこの交際に反対し、フランクリンの熱を冷ますために旅に出し、二人の結婚が避けられないと判断すると、今度は婚約を1年間は伏せるように指示した。二人の結婚式では、父親のないエレノアには、セオドア・ルーズベルトが父親役を務めた。新婚生活は、母のサラが二人のために隣に建てたタウンハウスで始まり、やがてはサラとともにスプリングウッドの家に同居した。サラが家庭のこと一切に� �� ��終的決定権限を握り、若いエレノアは、上流階級出身の厳しい姑のもとで耐え、やがてはサラに認められるようになる。
フランクリンがニューヨーク州上院議員、海軍省次官補になり、政治の道を歩み始めると、エレノアも自然と民主党の関係者とのつきあいが始まり、中でも民主党ニューヨーク支部で働くNancy Cook(ナンシー・クック)とMarion Dickerman(マリオン・ディカーマン)と非常に親しくなる。
エレノアの生活は、1921年にフランクリンがポリオで倒れて一変する。彼の支援者の勧めで、ルーズベルトの名前を忘れさせないように、ポリオで倒れたフランクリンに代わり、エレノアがスピーチや公式行事への参加を行うようになった。この過程で彼女は、女性や黒人といった社会的に抑圧された人々の権利向上に熱心に取り組むこととなった。エレノアは、クックやディカーマンとのつきあいを深め、フランクリンの勧めで、サラに気を遣わず、女性だけで集まれる場所をルーズベルト家の敷地に設けることとなり、石造りのコッテージ(Stone Cottage:ストーン・コッテージ)を建てた。この別荘のある場所を近くを流れる小川にちなみヴァルキルと名付けた。ここにクックとディカーマンは移り住んだ。
彼女たちは、Caroline O'Day(キャロライン・オデイ)とともに、ニューヨークの地方出身者が都会に移り住み、地方が寂れていくことを憂い、家具などの製造工場をヴァルキルに設けて、地方出身者に雇用の機会を提供した。大恐慌により事業は立ち行かなくなるが、その後はここを改造し、彼女の住居兼オフィスとして使用した。
フランクリンが大統領に当選するとエレノアはファーストレディーの責務に加え、夫の代わりに大恐慌で貧困に苦しむ人々の許を訪れ、対策の必要性を訴えた。また、女性や黒人の権利の向上を訴えるとともに、第2次大戦時には各地を慰問して回った。自らの定期記者会見を持ち、連載コラムも持った。彼女はファーストレディーにして人権活動家であった。この結果、エレノアは事実上有力な女性政治家としての地位を築き上げることとなった。夫の死後も、彼女の人気は衰えることなく、トルーマン大統領より、国連代表団の一員に任命され、国連人権委員会の委員長として世界人権宣言の制定に努めたほか、世界の民主化、抑圧された人々の人権向上を生涯唱え続けた。ヴァルキルはエレノアに� � �ってこれらの活動に必要な自立と静寂を与えた。
私もそういう隠れ家が欲しいという声が聞こえてきそうである。
(国立公園局のHP)
ヴァンダービルトの豪華な邸宅の近くに、第32代大統領Franklin D. Roosevelt(フランクリン・ルーズベルト)が生涯愛したSpringwood(スプリングウッド)と呼ばれる家がある。フランクリン・ルーズベルトは、米国史上唯一3期以上務めた大統領で、世界恐慌、第2次世界大戦という厳しい試練の中、米国を導いた大統領として、今なお深い尊敬と愛情をもって語られる大統領である。頭文字をとって、FDRと呼ばれている。
フランクリン・ルーズベルトは、恵まれた裕福な家庭に生まれ、育った。1882年1月30日に、ニューヨークの鉄道会社の重役である父James(ジェームズ)と母Sara(サラ)の一人っ子として生れた。ミドルネームのDelano(デラノー)は母方の苗字である。父親のジェームズは先妻を亡くし、再婚したサラとの間に54歳のときに授かった子供であった。フランクリンは、一人っ子で、父親が年を とってからの子供であったため、両親に深い愛情を注がれ、スプリングウッドで何一つ不自由しない子供生活を送った。家庭教師について学び、頻繁にヨーロッパに旅行に出かけ、乗馬、ハンティング、ポロ、テニス、釣り、ボートなど英国貴族の師弟のような子供時代を送った。フランクリンは、14歳のときにマサチューセッツの私立学校(Groton School:グロトン校)に入学し、寄宿舎での生活を体験する。グロトン校の校長Endicott Peabody(エンディコット・ピーボディー)牧師は、生徒に恵まれない人々への奉仕を説き、これが後にフランクリンを政治の世界に向かわせるバックボーンとなった。卒業後、ハーバード大学に進んだ。在学中に、遠縁のセオドア・ルーズベルトが大統領に就任し、進歩的政策を推進していく姿に感銘を受ける。卒業後、コロンビア大学ロースクールに学ぶが、在学中に司法試験に合格し、中退し、ニューヨークの弁護士事務所で弁護士として勤務を始めた。コロンビア在学中に、セオドア・ルーズベルト姪に当たるEleanor(エレノア)と結婚する。エレノアとの結婚生活は、6人(うち5人が成人)の子供に恵まれ、進歩的な思想を有するエレノアはフランクリンの政治判断にも大きな影響を与える。
かねてより政治の世界に興味のあ� �� ��たフランクリンは、1910年にニューヨーク州の上院議員に選ばれ、1912年の大統領選挙ではWoodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)を支援し、ウィルソン政権下で海軍次官補として活躍する。1920年の大統領選挙では、オハイオ州知事のJames Cox(ジェームズ・コックス)の副大統領候補として民主党より出馬した。選挙では、共和党のWarren Harding(ウォーレン・ハーディング)に敗れるが、フランクリンの名前は全国区で知られることとなった。将来のリーダーとして嘱望される中、フランクリンを突如不幸が襲う。1921年の夏、避暑中のところ、ポリオに感染し、下半身不随となる。これで政治生命を絶たれたと思われたが、エレノアの支援の下、健康回復に努め、1924年、1928年の大統領選挙でニューヨーク州知事のAlfred Smith(アルフレッド・スミス)の支援を行った。また、ポリオ撲滅にも力を注ぎ、ジョージア州に療養施設を建設し、ポリオ研究募金運動などを展開するNational Foundation for Infantile Paralysis(全米ポリオ財団)を設立した。フランクリンは、スミスの後継者として1928年ニューヨーク州知事に出馬し、知事選に勝利した。1930年に知事として再選され、世界恐慌に多くの人が苛まれる中、進歩的政策を実施し、次第に大統領候補として頭角を現す。フランクリンは、1932年の大統領選挙に出馬して現職のフーバー大統領を大差で破り、第32代大統領に就任した。フランクリンの大統領就任は、米国史上初の障害者の大統領の誕生も意味した。フランクリンは、New Deal(ニューディール)と呼ばれた政府支出の大規模な出動により、世界恐慌と戦っていくこととなる。大統領時代のFDRについては、Franklin Delano Roosevelt Memorial(フランクリン・デラノー・ルーズベルト記念碑)のところで紹介します。
彼にとって終始マイホームであったのが、スプリングウッドである。子供時代を過ごし、結婚後母親と同居し、ポリオに倒れた際も回復に努め、選挙中の作戦本部となり、大統領任期中も世界のリーダーを接遇し、頻繁に帰還したのは、思い出の詰まったスプリングウッドである。大統領退任後も、スプリングフィールドに帰る予定であったが、第2次大戦終了前夜にジョージア州で静養中に倒れ、返らぬ人となってしまった。フランクリンとエレノアは、彼らが愛したスプリングウッドに眠っている。
(国立公園局のHP)
どのように裁判所が警察の残虐行為に対して、市民を守るのですか?
ホロコーストで約強制収容所か
ヴァンダービルト家の成功は、提督と呼ばれたCornelius Vanderbilt(コーネリウス・ヴァンダービルト)に始まる。1794年にニューヨークのStaten Island(スタテン島)の貧しい家庭に生まれ、11歳で学校を辞め、家業を手伝い始めた。16歳のときに母親から借りた100ドルでスタテン島とニューヨークを結ぶ渡しを始め、成功し、英米戦争時にはニューヨークと周辺の砦をつなぐ物資輸送を手がけ、スクーナー船を所有するに至った。1818年にはThomas Gibbons(トマス・ギボンズ)の下で、当時独占状態だったハドソン川の輸送に低運賃で蒸気船の輸送を始め、大成功を収めた。1829年には独立し、ニューヨークと東海岸近隣都市とを蒸気船で結ぶサービスを低運賃で提供し、成功を収め、カリフォルニアのゴールドラッシュ時には、パナマルートに対抗して、より時間を節約でき、かつ、低運賃のニカラグアルートを開発し、これも成功を収めた。70歳近くになり、これからの将来は鉄道と見込み、ニューヨーク周辺の鉄道の買収をはじめ、ニューヨーク・セントラル鉄道を作り上げた。グランドセントラル駅を建設し、シカゴとのサービスを始め、さらなる発展の礎を築いた。1877年に亡くなった際には、資産は1億ドルに膨らんでおり、コーネリウスはそのほとんどを長男のWilliam Henry(ウィリアム・ヘンリー)に譲り渡した。彼はあまり寄付を行わなかったが、テネシーのCentral University(中央大学)に100万ドルの寄付を行い、現在大学は彼の名前(ヴァンダービルト)が冠されている。
ウィリアム・ヘンリーは父の買い与えた農場を経営していたが、父親が鉄道業に乗り出してからはこれを手伝うようになり、ニューヨーク・セントラル鉄道社長などを歴任する。彼の時代にも鉄道ネットワークを積極的に拡大し、彼が父親から引き継いだ1億ドル(現在の950億ドルに相当)は、彼が亡くなるときには倍の2億ドルに増えていた。また、彼は慈善事業に積極的で、ニューヨークのYMCA、コロンビア大学、メトロポリタン美術館などに多額の寄付を行った。彼は財産を8人の子供に分け与え、8人の子供は全てニューヨークの5番街に豪華な住居を立ち並べた。1880年にウィリアム・ヘンリーが5番街に豪華な住居を建て 、次に二人の娘のために隣に住居を建てから、次男のWilliam Kissam(ウィリアム・キッサム)は父親の家の向かいに80部屋の豪華絢爛な住居を建て、少し離れた場所に長男のコーネリウス2世は5階建ての当時ニューヨーク最大の住居を建設した。彼らは、当時の社交界の花形で、新聞各社とも彼らの一挙手一動足を追いかけ、恰好のゴシップねたとなった。ただ一人、パブリシティーを嫌った三男のFrederick(フレデリック)だけが受け継いだ1千万ドルの資産を7千万ドルに増やした。
フレデリックは、1956年に父親のスタテン島の農場で生まれ、エール大学を卒業後、家業である鉄道業に入り、ニューヨーク・セントラル鉄道の役員を実に61年間務めた。1878年に12歳年上のLouise Anthony Torrance(ルイーズ・アンソニー・トランス)と結婚した。家族は年上でバツいちのルイーズと結婚することに反対し、フレデリックは遺産相続権を一時抹消された。フレデリックとルイーズは、教育、医療、教会に多額の寄付を行った。ルイーズにとっては、多額の寄付を行うことがお金のために結婚したのではないことを示す証であった。二人は5番街の家の他に、メイン州Bar Harbor(バー・ハーバー)、ニューポート、ニューヨーク州のアディロンダックス山地、ニューヨークのHyde Park(ハイド・パーク)に別荘を所有し、個人の鉄道車両、ヨット、自動車などを所有していた。このニューヨークのハイド・パークの別荘がVanderbilt Mansion National Historic Site(ヴァンダービルト・マンション国立史跡)になっている。現在残っている当時の1/3程度の211エーカー(85ha)の敷地には、当時最高の建築会社McKim, Meade & White(マックキム、ミード&ホワイト)が1898年に建てた54室を擁するクラシック様式の豪華な住居が建つ。冷暖房、電気、配水管、エレベーター完備の当時の最新式の住居で、敷地内に自家用水力発電装置が置かれていた。インテリアも当時のトップデザイナーが担当し、ヨーロッパからアンティークの調度品が多数調達された。特にお客をもてなす1F部分はヨーロッパの王宮のごとく豪奢な装飾が施され、調度品が置かれた。調度品の中には、由来は不明だが、菊の御紋入りの伊万里焼のボールまである。3Fとなっているが、2Fにはこの家の主とVIPの寝室が用意された。この豪華な邸宅も別荘であったので年に数週間しか使われることはなかったが、60人程度のスタッフが常駐し、メンテナンスに努めていたという。
豪華なこの屋敷も兄弟達の別荘と比べれば一番小さな建物である。ヴァンダービルトの兄弟たちは、ニューヨーク市内の住居建設が一巡すると豪華さを争うように別荘を建てた。中でも1888年にウィリアム・キッサムが妻のためにロードアイランド州New Port(ニューポート)に建てたMarble House(マーブル・ハウス)、1895年にコーネリウス2世がニューポートに建てたThe Breakers(ブレーカーズ)、四男のGeorge Washington(ジョージ・ワシントン)がノースカロライナ州のAsheville(アッシュビル)に建てたBiltmore(ビルトモア)などは、今日にも残り、その豪華絢爛たる建物は、今なお見る人の度肝を抜いている。中でもビルトモアは部屋数が250もあり、想像を絶する規模である。しかし、フレデリック以外の3代目のヴァンダービルトたちは、豪華さを競ううちに、父親から受け継いだ財産を散在してしまった。
ルイーズを亡くしてからは、フレデリックは、ニューヨークの家とこの家を住いとした。フレデリックとルイーズには子供がいなかったので、遺言でこの屋敷はルイーズの姪Margaret Van Allen(マーガレット・ヴァン・アレン)に譲られ、他の財産はルイーズとの結婚のときに父親との関係を取りもってくれた妹のエリザの娘に遺されたほか、この屋敷の従業員に勤務年数に応じて分配されたという。この屋敷に40年奉公した支配人には25万ドル譲られたという。マーガレットは、フランクリン・ルーズベルト大統領の例に倣って、フレデリックの死後2年後にこの家を国に寄付することとした。このため、この屋敷にはフレデリックの生前の調度品が散逸することなくそのまま残っており、金メッキ時代のアメリカの大富豪の暮らしぶりをうかがうことができる貴重な場所となっている。
かつて世界名作劇場で出てきた「お金持ちの家」が実際には何倍ものスケールで展開されていたことは、想像を超えるものがある。し� � �し、栄華必衰の理はアメリカでも同じようである。
(国立公園局のHP)
アメリカで副大統領から大統領になるのは、大統領が死亡した場合を除けば、難しく、これまで4例しかない。アル・ゴアも失敗した。直近の例では、現ブッシュ大統領の父親がレーガン政権の副大統領から大統領に当選したが、その前はそれから152年前にさかのぼる。その人物は、第8代大統領Martin Van Buren(マーチン・ヴァン・ビューレン)。日本人で知っている人は少ないと思うが、ヴァン・ビューレンは、初のアメリカ独立後に生まれた大統領であり、英語以外で育った唯一の大統領である。
ヴァン・ビューレンは、1782年12月5日に、アルバニーから南に25マイルほど離れたハドソン峡谷のKinderkook(キンダークック)に農家兼居酒屋の両親の3番目の子供として生まれた。家庭ではオランダ語で育った。居酒屋はニューヨーク州の政治家の溜まり場となっており、政治談議を聞きながら、ヴァン・ビューレンは育った。14歳のときから法律事務所で働き始めて法律の勉強をし、20歳で法曹界入りが認めら、弁護士としてスタートした。1808年にコロンビア郡の判事に選ばれた後、1812年にニューヨーク州上院議員に選ばれ、政治家としての道 を歩き始める。ニューヨーク州上院議員時代に、ヴァン・ビューレンは、Bucktails(バックテールズ)と呼ばれたインナーグループの有力者としてニューヨーク政界に君臨する実力者となり、政治取引の妙を巧みに操り、Little Magician(小さな手品師)と呼ばれた。1821年には合衆国上院議員に当選し、中央政界に進出した。1824年の大統領選挙でジェファーソンの党であるDemocratic Republican Party(民主共和党)が国務長官John Quincy Adams(ジョン・クインシー・アダムズ)を推す派、英米戦争の英雄Andrew Jackson(アンドリュー・ジャクソン)を推す派と財務長官William Crawford(ウィリアム・クロフォード)を推す派に分裂した際には、ヴァン・ビューレンは、クロフォードを支持したが、クロフォードが選挙で破れ、ジョン・クインシー・アダムズが大統領となると、今度はクロフォードとジャクソンのグループを結びつけ、Democratic Party(民主党)の結成、ジャクソンの大統領当選に大きく貢献した。このため、ヴァン・ビューレンは、1829年にニューヨーク州知事に選ばれるも、ジャクソン政権1期目の国務長官に選ばれ、ジャクソン大統領の参謀役を務めた。ヴァン・ビューレンに対するジャクソンの信望は厚く、ヴァン・ビューレンはジャクソン政権2期目には副大統領に選ばれ、さらにジャクソンから後継指名を受け、1836年の大統領選挙で当選し、翌年第8代大統領に就任した。
スラム街は、大恐慌の間に構築された
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ヴァン・ビューレンの順風満帆に見えた政治生活も、大統領就任直後に、1837年の恐慌が始まり、傾き始める。ジャクソン政権下で、西部開拓が進み、西部の公有地の払い下げ、水路、鉄道などの投資が進み、景気が過熱していた。ジャクソン政権は、中央銀行を認めず、第2国立銀行を廃止し、州の銀行に連邦資産を預けていたため、州の銀行はこの資金を投機に使用し、紙幣は州の銀行が発行したものが流通していた。ジャクソン政権は、土地投機を抑えるため、公有地の払い下げは金銀の貨幣に限るとの大統領令を発令し、金銀のリザーブが少なかった多くの州の銀行は、紙幣との交換を停止した。これにより紙幣は紙くず同様となり、貨幣流通は一気に縮小し、一気に景気は冷え込んだ。多くの公共プロジェクトが中 止に追い込まれ、町には失業者があふれた。この不景気は、ヴァン・ビューレンが大統領の間、続いた。ヴァン・ビューレンは、政策を翻し、政府資金を取り扱う独立の銀行を設立し、混乱を収拾しようとするが、議会の反対により提案は任期終了間際まで実現しなかった。テキサスが独立し、連邦加盟を申請したが、奴隷州と自由州の均衡が崩れることをおそれたヴァン・ビューレンは、テキサスの加盟を認めなかった。イギリス領カナダで政府への反乱が起き、アメリカの協力者がこれを支援し、イギリス軍が支援に使用された船を焼き払う事件が生じたとき、多くの国民はイギリスへの宣戦布告を求めたが、ヴァン・ビューレンはカナダでの反乱への中立の立場をとり続けた。これらの政策は、国民には不評であった。さらに、ヴァ� �� ��・ビューレンはおしゃれ好きで高価な衣服を身に着けていたことも大統領の不人気に拍車をかけた。野党は、ヴァン・ビューレンのことをMartin Van Ruin(マーチン・ヴァン・ルーイン(破滅))と呼んだ。ヴァン・ビューレンは、1840年の大統領選で、原住民との戦いや英米戦争のヒーローであるWhig(ウィッグ)党のWilliam Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)に敗れ、地元に帰郷し、復活の機会を探った。
しかし、1844年の大統領選挙では民主党の党内指名で敗れ、1848年には第3政党である西部への奴隷制の拡張に反対するFree-Soil Party(自由の土地党)から大統領選に出馬し、敗れ、これを機に政界から引退した。
ヴァン・ビューレンは、1839年に地元のキンダーフックに旧家を購入し、邸宅に改造を加え、ヨーロッパから取り寄せた家具、絨毯、壁紙などで整え、旧家を蘇らせた。農場経営も始め、これも成功させ、政界引退後は、自らの職業を「農業」と記していた。ヴァン・ビューレンは、この家を屋敷の前の(リンデン:菩提樹)にちなみ、Lindenwald(リンデンウォールド)と呼んだ。ヴァン・ビューレンは、1807年に幼馴染で母方の従姉妹に当たるHannah Hoes(ハンナ・ホーズ)と結婚し、4人の男の子を設けるが、1819年に結核で亡くしている。その後、ヴァン・ビューレンの家には、ハンナの肖像画が掲げられ、ヴァン・ビューレンは再婚することなく、独身を通した。
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この間、徐々に作戦の歯車が狂い始める。8月16日にバーゴインがアルバニー北東のBennington(ベニントン)にあるアメリカ軍の補給基地を襲撃するため派遣した別働隊はニューイングランドの民兵に壊滅させられる。また、8月22日に、西部から合流予定のセント・レジャー率いるイギリス軍はスタンウィックス砦で進軍を阻まれ、撤退する。バーゴインは、それでも兵を進め、アルバニーから40マイル(64km)ほど北のSaratoga(サラトガ)に達する。アメリカ軍は、ポーランド人軍事技師Thaddeus Kosciuszko(サデウス・コシュースコ)大佐の指揮の下、サラトガの南、アルバニーに至るハドソン川岸の街道を見下ろす丘に陣地を築いて9,000名の兵士を配置し、イギリス軍を待ち構えていた。(これまでの経緯については、この地図(PDF)を参照。)
9月19日、両軍の決戦の火蓋は切られた。バーゴインは、イギリス軍を3部隊に分け。北、北東、東の3方からアメリカ軍を攻撃した。北、北東からの部隊は、Freeman Farm(フリーマン農場)と呼ばれるオープンな場所でDaniel Morgan(ダニエル・モーガン)大佐率いるヴァージニア狙撃兵に出遭い、一進一退の銃撃戦を展開した。イギリス軍が崩れかかろうとしたとき、東からのドイツ傭兵が現れ、辛うじて戦線を保ち、アメリカ軍は弾薬が尽き、自軍陣地に撤退した。
イギリス軍は、三又作戦の一翼を担う、ニューヨークから現れるはずの援軍を待ち、フリーマン農場付近に砦を築いて立てこもった。しかし、3ヶ月待っても援軍は来なかった。なぜなら、ニューヨークのイギリス軍は、首都フィラデルフィアを攻略し、占領していたからであった。徐々に食料が少なくなり、バーゴインはリスクをとり再び攻撃に転ずる。10月7日、イギリス軍はアメリカ軍の左翼に向け部隊を進めた。この動きを察知したアメリカ軍は、逆にBarber Farm(バーバー農場)で三方からイギリス軍を挟み撃ちにした。イギリス軍は、この戦いでSimon Frazer(サイモン・フレイザー)将軍を失うなど、400名の将兵を失い、フリーマン農場付近の砦に引き揚げた。さらにアメリカ軍は追い討ちをかけ、砦を攻略した。この日、勇猛果敢な働きをしたのが、Benedict Arnold(ベネディクト・アーノルド)将軍であった。アーノルドは自ら部隊の先頭に立ち、危険を顧みず、イギリス軍撤退に決定的な攻撃を主導した。
イギリス軍は、東のハドソン川付近の兵站基地(Great Redoubt)まで後退し、さらに翌日サラトガまで兵を引いた。アメリカ軍は、これを追い、サラトガの高地に立てこもるイギリス軍を包囲した。この頃にはイギリス軍は6,000名程度に減り、逆にアメリカ軍は援軍の民兵などが増え、20,000近くに膨らんでいた。バーゴインは、勝機なしと見て、10月17日に降伏した。
このサラトガ付近での一連の戦いは、独立戦争で初めてアメリカ軍に勝利らしい勝利をもたらした。これによりフランスは、アメリカ側に立って、参戦することとなる。フランスの参戦は、独立戦争の力関係をアメリカ側有利に大きく変更することになる。
Saratoga National Historical Park(サラトガ国立歴史公園)には、サラトガの戦場跡、サラトガでのアメリカ軍勝利の記念碑、シュイラー将軍邸宅などが保存されている。
サラトガは、独立戦争の戦局を変えた潮目の戦いとして有名であり、多くのアメリカ人の観光客を呼んでいる。
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しかし、この戦略的な場所は、独立戦争の際に再び脚光を浴びる。独立戦争はアメリカにとって初めから苦難の連続であった。ワシントンが指揮する兵力のほとんどは戦闘経験のない民兵で、兵士というよりライフルの扱いに慣れた個人個人の集まりにすぎなかった。その上、州兵の兵役期間は短く、食料、弾薬、衣服、医薬品など何もかもが不足していた。イギリス兵は訓練されている上、装備も立派で、アメリカ軍は当初は連戦連敗であった。1777年までにはニューヨークはイギリスの手に落ちていた。イギリス軍のJohn Burgoyne(ジョン・バーゴイン)将軍は、イギリスの勝利を決定的なものとするため、3方向からアメリカ軍の守備隊が置かれるニューヨーク州Albany(アルバニー)を目指し、アメリカ13州の北部を分断しようとした。バーゴイン将軍率いる第1グループはカナダから南下、Barry St. Leger(バリー・セント・レジャー)将軍率いる第2グループはオンタリオ湖のほとりのOswego(オスウェゴ)からモホーク川を東進、総司令官William Howe(ウィリアム・ハウ)将軍率いる第3グループはニューヨークからハドソン川を北上するという作戦であった。(ハウには、首都フィラデルフィアの攻略という別の目的があり、この作戦には参加しなかった。)
この作戦を察知したアメリカ軍は、1776年にスタンウィックス砦を再建し、翌年到着したPeter Gansevoort(ピーター・ガンスブーアト)大佐の指揮の下、敵の来襲に備えた。セント・レジャー将軍率いる部隊は、イギリス軍とモホーク族らから成る1,700名規模の混成部隊で、1777年8月3日にスタンウィックス砦の包囲を開始した。この動きを事前察知したアメリカ軍のNicholas Herkimer(ニコラス・ハーキマー)将軍は、900名の民兵を引き連れ、スタンウィックス砦の応援に向かった。しかし、その途中のOriskany(オリスカニー)で、セント・レジャーの別働隊に待ち伏せされ、打ち破られてしまう。一方でガンスブーアトもMarinus Willett(マリナス・ウィレット)大佐の下、かく乱部隊を組織し、イギリス側キャンプを襲わせた。
アメリカ軍は、アルバニーの守備隊から兵力を裂き、Benedict Arnold(ベネディクト・アーノルド)少将率いる救援部隊を派遣した。この増派の情報とウィレットの襲撃でモホーク族は戦意を喪失し、兵を引き上げたため、セント・レジャーの部隊は瓦解してしまい、セント・レジャーは8月22日に包囲を解き、カナダに撤退した。
また、スタンウィックス砦は、1768年にイギリスとIroquois(イロコイ)連邦が境界画定交渉を行い、イロコイ連邦がケンタッキーを事実上イギリスに譲ることが取り決められた場所や、独立戦争後の1784年に連邦政府とイロコイ連邦が和平条約を交渉した場所としても知られている。イロコイ連邦は、Seneca(セネカ)、Cayuga(カユガ)、Onondaga(オノンダガ)、Tuscarora(タスカローラ)、Oneida(オネイダ)、モホークの6部族からなる原住民の連邦国家で、ニューヨーク州を 拠点としていた。アメリカの連邦制度は、イロコイ連邦を参考にしたとも言われている。独立戦争中、オネイダ族、タスカロラ族以外の4部族はイギリス側につき、モホーク族のJoseph Brant(ジョセフ・ブラント)を中心に開拓者への襲撃を繰り返した。独立戦争終了後、ワシントンはJohn Sullivan(ジョン・サリバン)将軍率いる部隊を派遣し、イロコイ連邦の抵抗を抑えた。この結果、ジョセフ・ブラントらはカナダへ亡命し、イロコイ連邦は大部分の土地を連邦政府に譲渡することとなった。
現在では、スタンウィックス砦は、1777年当時の様子に再現されている。砦は、四角形の均整のとれた星型の形をしており、五稜郭ならぬ四稜郭とでもいえる雰囲気をたたえている。
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1830年代-40年代にニューヨーク州中央部のWaterloo(ウォータールー)と� � �の隣町のSeneca Falls(セネカフォールズ)でクエーカー教徒を中心に奴隷解放運動が展開されていた。フィラデルフィア出身のLucretia Mott(ルクレシア・モット)、その姉妹のMartha Wright(マーサ・ライト)に、Jane Hunt(ジェーン・ハント)、Mary Ann M'Clintock(メリーアン・マクリントック)らが加わった。1840年にロンドンで世界奴隷反対会議が開催され、モットはこれに出席したが、同じくこれに出席していたElizabeth Cady Stanton(エリザベス・ケイディー・スタントン)らとともに、女性であることを理由に代表の席に座ることが認められず、このとき二人は意気投合し、女性の権利向上を誓う。1847年にボストンからスタントンがセネカ・フォールズに移住してからは、モットらのグループにスタントンも加わり、初めての女性の権利のための大会の開催に向けて運動が加速した。
彼女達はハントの家に集まり、大会の計画を練った。大会の目玉として、Declaration of Sentiments(感情宣言)を採択することとした。感情宣言の文案は、マクリントックの家に集まり練った。感情宣言は、アメリカの独立宣言にならい、全ての男性と女性は平等に創造されたことは自明の摂理であると高らかに宣言し、女性への参政権の付与を含む男性との同等の権利の早急な付与を求めた。大会は、1848年7月19-20日にセネカ・フォールズのWesleyan Chapel(ウエズリー派教会)で開催され、300名余りが参加し、男性32名、女性68名の合わせて100名が署名した感情宣言を採択し、成功裏に閉幕した。その中には黒人奴隷反対運動家Frederick Douglous(フレデリック・ダグラス)も含まれていた。女性権利向上運動は黒人奴隷反対運動と連携し、お互いの地位の向上を目指した。
これ以降、女性の権利の向上を求める大会は、各地に広がるとともに、規模が大きくなっていった。1850年にLucy Stone(ルーシー・ストーン)らが女性の権利向上を求める全国大会をマサチューセッツ州のWarcester(ウォーセスター)で開催し、1,000名規模の人々が参加した。1851年にはオハイオ州のAkron(アクロン)で全国大会が開催され、Sojourner Truth(ソージョーン・トゥルース)が"Ain't I a woman?"(私は女性じゃないの)のスピーチで黒人女性の地位向上を訴えた。全国大会はほぼ毎年1860年まで開催された。
同年にスタントンは、禁酒運動に熱心なSusan B. Anthony(スーザン・アンソニー)と出会い、二人は女性権利向上運動の指導者としてパートナーを組むこととなった。2人は、1863年、リンカーンの奴隷解放宣言後、全国での奴隷解放を求めてNational Women's Loyal Leagueを結成した。彼女達の運動は、1865年の奴隷を禁ずる憲法修正をもたらした。1866年に二人はAmerican Equal Rights Association(全米権利の平等協会)を設立し、全ての人への参政権の付与を求める運動を展開した。
しかし、女性の参政権を求める運動は、ストーンらを中心とするまず黒人男性の参政権を実現し、次に女性の参政権を実現することでよいという意見とスタントン、アンソニーらを中心とする黒人男性と女性の参政権を同時に実現すべきという意見に分裂し、1869年に前者はAmerican Woman Suffrage Association(全米女性参政権協会)を結成し、後者はNational Woman Suffrage Association(全国女性参政権協会)を結成し、運動は分裂した。また、スタントン、アンソニーらとフレデリック・ダグラスら黒人指導者との間にも溝ができてしまった。1870年に憲法第15修正条項が批准され、まずは黒人男性に参政権が付与されることとなった。
女性参政権運動は分裂し、弱体化するに見えたが、1879年にFrances Willard(フランシス・ウィラード)がWomen's Christian Temperance Union(女性キリスト教禁酒連合)の会長となり、禁酒運動と女性参政権運動を結びつけ、女性キリスト教禁酒連合の会員が増えるにつれ、女性参政権運動は息を吹き返し始める。女性参政権実現のための憲法修正提案はなされるが、実現しない一方で、1890年に女性参政権を認める初めての州としてワイオミング州の連邦加盟が認められ、コロラド、アイダホ、ユタの各州が相次いで女性参政権を認めていった。このような動きの中、1890年に全米女性参政権協会と全国女性参政権協会は統合し、National American Woman Suffrage Association(全国アメリカ女性参政権協会)が結成され、初代会長にスタントンが就き、1992年には2代目会長にアンソニーが選ばれ、ウィラードも理事に就任し、憲法修正よりも各州レベルでの女性参政権の実現に運動を切り替えていった。
しかし、スタントン、アンソニーとも生前には全国レベルでの女性参政権の実現を見ることはできなかった。運動は次の世代に引き継がれ、女性への参政権を認める憲法第19修正条項が批准されたのは、セネカ・フォールズの女性参政権大会から実に72年後の1920年のことであった。セネカ・フォールズで感情宣言に署名した100名のうち生存し、男女平等の選挙で投票できたのは、わずか1名だけであったという。この後、女性の権利向上運動は、参政権以外の不平等格差の是正を目指して運動を続� �� ��ていくこととなる。
Women's Rights National Historical Park(女性の権利国立歴史公園)は、女性の権利向上運動の発祥の地であるウォータールーやセネカ・フォールズに、最初の女性の権利大会にゆかりのある、ハント、マクリントック、スタントンら先駆者達の家や大会の会場となったウエズリー派教会などを保存している。スタントンやアンソニーらの先駆者は、ヒラリー・クリントンの出馬をどのように見ているだろうか。誇らしく思っているだろうか、それとも進歩の遅さにいらだっているであろうか。
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この事件は、ヴァーモント州で遊説中の副大統領にもすぐに知らされた。副大統領が駆けつけると大統領の周りには他の閣僚も既に集まっていた。マッキンリー大統領の腹部に到達した弾は所在が不明であった。博覧会には当時最新技術のX線撮影機も展示されていたが、X線が人体に与える影響をおそれ、医師はこれを使用しなかった。幸い大統領の容態は持ち直したため、そのまま経過を見ることとした。医師は大統領は回復すると見込んでいた。このため、副大統領もいったんニューヨーク州北部のAdirondack Mountains(アディロンダック山地)で休暇中の家族の元に行くこととした。
副大統領の名前は、セオドア・ルーズベルト。セオドア・ルーズベルトについては、一度セオドア・ルーズベルト国立公園のところで触れたが、1886年にノースダコタから帰ったルーズベルトは幼馴染のEdith Carow(エディス・キャロウ)と再婚し、エネルギッシュに公務を再開した。ルーズベルトはエディスとの再婚は5人の子供にも恵まれ、公私ともに充実した生活を送った。1888年にBenjamin Harrison(ベンジャミン・ハリソン)の大統領選挙を支援し、ハリソン当選後は人事委員会の委員に起用され、政治介入廃絶に尽力し、1895年にはニューヨーク市公安委員会委員長に就任し、腐敗根絶に努力した。1897年には、マッキンリー政権1期のとき、海軍次官補に任命され、米西戦争の準備を指揮し、戦争が始まると、次官補の職を辞し、Rough Riders(ラフ・ライダーズ)と呼ばれた志願兵による騎兵隊を組織して従軍し、San Juan Hill(サン・ユワン丘)の戦いで同丘攻略に活躍し、一躍国民的ヒーローとなる。戦争後は、1898年にニューヨーク州知事に当選し、1990年の大統領選挙では、マッキンリーとともに副大統領候補として当選し、副大統領となったばかりであった。
9月13日、登山から帰ってくる途中のルーズベルトの前に電報を持った使者が現れた。大統領は危篤ですぐにバッファローに戻るべきとの電報であった。ワゴンを仕立て35マイル離れたNorth Creek(ノース・クリーク)の駅につき、汽車に乗り込むとき、ルーズベルトは訃報を聞かされた。銃創が壊疽を起こし、マッキンリー大統領の命を奪ったのである。翌日午後、バッファローに到着し、亡き大統領と対面し、家族に哀悼の意を表した後、戦争長官Elihu Root(エリフー・ルート)の進言により直ちに大統領就任の宣誓をウィルコックス邸の書斎で行うこととなった。ルーズベルトは着の身着のまま駆けつけたため、周囲の人から衣服を借り、連邦地方裁判事の前で宣誓を行った。このときルーズベルトは、42歳。当時としては最も若い大統領の誕生であった。
この若き大統領に不安を覚えた者も少なくなかった。しかし、ルーズベルトは、前任者のことが忘れ去られるほど、有権者の支持を集め、歴史に名を残す大統領として活躍することとなる。
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