2012年6月4日月曜日


全長363マイル(584キロメートル)、幅40フィート(12メートル)、深さ4フィート(1.2メートル)で、 閘門 は83箇所あり、それぞれ幅90フィート(27 メートル)、高さ15フィート(4.

2012年6月2日土曜日


  • Sagamore Hill National Historic Site

  • Gateway National Recreation Area

  • Eleanor Roosevelt National Historic Site

  • Home of Franklin D. Roosevelt National Historic site

  • Vanderbilt Mansion National Historic Site

  • Martin Van Buren National Historic Site

  • Saratoga National Historical Park

  • Fort Stanwix National Monument

  • Women's Rights National Historical Park

  • Theodore Roosevelt Inaugural National Historic Site


Sagamore Hill National Historic Site(サガモア・ヒル国立史跡)は、その名前からはよくわからないかもしれないが、ニューヨーク州のLong Island(ロング・アイランド)にある第26代大統領セオドア・ルーズベルトの邸宅を保存する国立公園ユニットである。

ルーズベルト邸宅のあるロングアイランドのOyster Bay(オイスター・ベイ)地区は、もともと彼の父親が別荘を立て、ルーズベルト自身も15歳のときから毎年夏を過ごしていた風光明媚なお馴染みの土地であった。1880年に婚約者のAlice Hathaway Lee(アリス・ハザウェイ・リー)とオイスター・ベイにある納屋が建つ丘を購入し、そこに新居を建てる計画を立てた。しかし、セオドア・ルーズベルト国立公園のところでふれたとおり、1884年に最愛の妻アリスと母マーサを同時に亡くしてしまう悲劇に見舞われる。計画はご破算かと思われたが、生れたばかりの娘アリスのために計画通り家を建てることを決意した。しかし、ルーズベルト自身は、ノースダコタで傷心を癒す生活を送り、アリスは叔母のアンナとともに新居で暮らすこととなった。1886年にルーズベルトは幼馴染のEdith Carow(エディス・キャロウ)と再婚してからは、この新居に住み、以後ルーズベルトは1919年になくなるまで、この家を終生の住居とした。ルーズベルトは、この家をサガモア・ヒルと名付けた。サガモアは、もともとこの土地を持っていた原住民の酋長の名前にちなんだものである。

サガモア・ヒル

新居に転居してから大統領に就任するまでの彼の半生については、Theodore Roosevelt Inaugural National Historic Site(セオドア・ルーズベルト大統領就任国立史跡)のところを参照していただきたい。彼が1901年に大統領になってからは、家族はホワイトハウスに転居することになるが、毎年夏にはサガモア・ヒルに帰省し、ここから国政の指揮をとっていたため、サガモア・ヒルはSummer White House(サマー・ホワイトハウス)と呼ばれていた。また、セオドア・ルーズベルトは、日露戦争終結の仲介の労をとった功績で後にノーベル平和賞を受賞するが、平和交渉が行われたポーツマス会議の事前会議がこのサガモア・ヒルで行われている。ルーズベルトは、サガモア・ヒルで小村寿太郎やセルゲイ・ウィッテと会い、両国交渉団をオイスター・ベイに浮かぶヨットでひき合わせている。外交面では、コロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河建設の権益を確保するなど、中南米への関与を強めた。

内政面では、科学的手法を用いて政府が社会的問題を解決すべきとの考えに立つ進歩主義を信奉した政策を展開した。とりわけSquare Deal(まっとうな取引)と称して、経済的支配力や汚職の排除に力を注いだ。ルーズベルト政権下では44の独禁訴訟が提起され、スタンダード石油の解体などが実行された。鉄道規制にも取組み、リベートの禁止、州際取引委員会による上限運賃規制、財務諸表の報告などが実現された。食品や薬品の表示や衛生規制の導入も実施した。さらに自然保護に努め、多くの国立公園、国定公園を指定したほか、林野庁を設立し、国有林の保護に当たらせた。大企業を相手にし、一般市民や労働者のために戦うリベラルなイメージは国民の人気を高めた。

多くの国民が3選を望む中、ルーズベルトはWilliam Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)を後継に指名して2期で大統領を引退し、元大統領としては異例の引退生活を送ることとなる。ルーズベルトは、ワシントンDCのスミソニアン協会とニューヨークのアメリカ自然史博物館のためにアフリカ探検隊を組織して自らも参加し、多くの動植物の標本を採取し、寄贈した。ヨーロッパ・ツアー後、後継に指名したタフト大統領が自分の意に沿わない政策を実施していることを知ると、1912年の大統領選挙にはタフトの対抗馬として共和党予備選挙に出馬し、共和党大会での指名が難しいことを知ると、新たな政党Progressive Party(進歩党)を組織し、大統領選挙に第3の候補者として出馬した。ルーズベルトはタフトを上回る票を獲得したが、この結果、共和党の票が割れ、タフトは落選し、民主党のWoodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)が当選することとなった。大統領選挙に敗れたルーズベルトは、今度はアマゾン探検に乗り出す。探検隊が新たに発見したアマゾン川の支流は、Rio Teodoro(セオドア川)と名付けられる。しかし、ルーズベルトはこのときにマラリアと足の炎症から命を落としかける。帰国後は、さすがに未開地の探検のような無理はきかなくなり、著述活動、講演活動などに専念し、歴史、西部、自伝などの著作を残している。第1次大戦時には、早期からヨーロッパ戦線への介入を唱え、ウィルソン大統領と激しく対立した。米国参戦が決まると、自ら歩兵団を組織しようとするが、ウィルソン大統領に阻まれる一幕もあった。一方では、第1次大戦では、ルーズベルトが最も可愛がった末っ子のQuentin(クウェンティン)を失っている。晩年は、ボーイスカウト活動の発展に熱心であったという。

ルーズベルトは、探検家、歴史家、作家、ハンター、自然保護活動家、鳥類学者、軍人、カウボー� �� ��、そして政治家でもあり大統領でもあった、多面な才能にあふれた、一言では言い表せないスケールの大きな人物である。サガモア・ヒルに残る6,000冊の蔵書は、彼の多様な側面を物語っている。

(国立公園局のHP)


ニューヨークの郊外に合計で26,600エーカー(108平方キロ)のビーチ、砂丘、森林、湾などからなる自然が残されている。これらの貴重な自然は、Gateway National Recreation Area(ゲートウェイ国立レクリエーション地域)に指定され、ニューヨーク市周辺住民に憩いの場を提供している。ゲートウェイ国立レクリエーション地域は、Jamaica Bay(ジャマイカ湾)、Staten Island(スタテン島)、Sandy Hook(サンディー・フック)の3つのユニットから成っている。

中でも中心的な地域は、ジャマイカ湾ユニットである。ここは、JFK空港のすぐ裏手に当たるが、湾内に野生動物保護区が設定され、水鳥の宝庫となっている。ここでは300種類以上の鳥類が確認されている。冬にはカナダ雁、夏にはブロンズトキやサギ類の溜まり場となる。

ここのWest Pond Trail(ウェスト・ポンド・トレール)を歩くと、遠くに見えるマンハッタンの高層ビルを背景に、水鳥たちが毛繕いをしながら浮かんでいる。都会の喧騒から離れた別世界である。このトレールを歩いているとき、珍しい光景に出会った。カモメが何かをくわえて、繰り返しトレールに落としていた。よく見ると、カラス貝のような貝を上から落として割っていたのであった。トレールのところどころには貝殻が転がっており、なぜ道に貝殻が落ちているのか不思議な思いがしたが、疑問が一気に解決した。

ジャマイカ湾ユニットには、この他、昔の飛行場であるFloyd Bennett Field(フロイド・ベネット飛行場)やFort Tilden(ティルデン砦)など歴史的な構造物も残っている。フロイド・ベネット飛行場は、リンドバーグの大西洋横断がニューヨークから離陸したものではなかったことにショックを受けたニューヨーク市初の市営の飛行場で1931年に開港した。1930年代に多くの飛行家がここから長距離飛行世界記録や大陸横断記録などを塗り替えていった。しかし、郵便輸送はニューアーク空港にとられ、ラガーディア空港が近くに開港するとこの飛行場はニューヨーク市にとって荷物となり、1941年に海軍に売却された。ティルデン砦は、1917年に造られた沿岸防衛の基地で、その後ミサイル基地として使用され、1974年に廃止となったものである。

フロイド・ベネット飛行場

スタテン島ユニットには、The Narrow(ナロー)と呼ばれたスタテン島とニューヨーク・ブルックリンとの間の海峡を警備したFort Wadsworth(ワッズワース砦)や1921年に沿岸防備のため整備された陸軍のMiller Field(ミラー飛行場)や散歩によいGreat Kills Park(グレート・キルズ公園)などがある。

ワッズワース砦は、独立戦争の頃から軍事的要所として認識され、ニューヨークを占拠したイギリス軍が最初に軍事的拠点を築いた。英米戦争のときには逆に連邦軍とニューヨーク民兵がこの場所からイギリス軍の来襲に備えて警戒に当たった。英米戦争後の沿岸防衛の一環として、1847年から1862年にかけて堅固なFort Richmond(リッチモンド砦)が築かれ、1865年に、Wildernessの戦いで戦死した北軍のJames Wadsworth(ジェームズ・ワッズワース)准将の名前を冠してワッズワース砦と改められた(1902年にこの一帯の基地がワッズワース砦と呼ばれることとなるに伴い、旧リッチモンド砦はBattery Weed(ウィード砲台)と改名された)。1859年から1876年にかけてワッズワース砦とナローの陸上防備のためにFort Tompkins(トンプキンス砦)が整備され、20世紀初頭までに幾重もの砲台が築かれた。第1次大戦後には砲兵隊の基地となり、冷戦時には地対空迎撃システムであるNike Missile(ナイキ・ミサイル)が配備されるなど、ニューヨーク防衛の要として使用され、1994年の基地閉鎖に伴い、国立公園局に移管された。

ウィード砲台

サンディー・フック・ユニットは、ニューヨーク湾に突き出た砂洲であり、ビーチがあるほか、1764年に建てられた現役の灯台の中で最も古いSandy Hook Lighthouse(サンディー・フック灯台)、1895年に沿岸防衛のために整備されたFort Hancock(ハンコック砦)、かつての砲銃試験場であるSandy Hook Proving Ground(サンディー・フック・プルービング・グラウンド)などを見ることができる。


個々の対共同意志がなります
サンディー・フック灯台

ハンコック砦は、1859年にニューヨーク沿岸防衛のため石造りの砦として建設が開始されたが、銃砲の進化によりすぐに時代遅れのものとなった。このため、1894年にモルタル製の砲台を築き、続いて1895年にコンクリート製のBattery Potter(ポッター砲台)を建造した。この2基の砲台の完成をもって、正式にハンコック砦として開設された。砦の名称は、南北戦争の北軍の将軍Winfield Scott Hancock(ウィンフィールド・スコット・ハンコック)に由来する。その後もニューヨーク沿岸防衛の要として兵器の進化に対応して新たな砲台の整備や改良が行われ、冷戦時代にはナイキ・ミサイルも配備された。大陸弾道弾の到来とともに、時代の役割を終え、ハンコック砦は1974年に閉鎖された。ハンコック砦は、今日では政府施設等に利用されている。

ポッター砲台

(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)